神聖ローマ帝国の歴史を知らねばナポレオンのイノベーションは理解できない
前回に引き続き
http://yutateamaster.hatenablog.com/entry/2016/11/18/070034
西暦800年、12月25日、ミサが執り行われるローマ、サン・ピエトロ大聖堂。
レオ3世はシャルルマーニュに対し皇帝戴冠式を断行しました。
【西ローマ帝国の復活】です。
フランスとドイツという、日本と朝鮮半島のような愛憎入り混じる友好関係の両国の歴史は共にこの復活西ローマ帝国を起源にもちます。
(正確にはフランスとドイツ以外の現西ヨーロッパの殆どの国もですが)
なので、この復活西ローマ帝国が汎ヨーロッパ主義というか現在のEUの起源であるとする考えもあるようです。
イギリスのEU離脱を思うと、ヨーロッパというのは集合と分離を繰り返す歴史ということがよく理解できます。
スペインの著名な建築家、アントニオ・ガウディは「自分はスペインの中でもローマに近い都市で生まれ育った」と自分の出自を誇ったエピソードがあるそうな。
要は、ローマに支配されたという歴史を背負う町バルセロナの出身ということを誇っているのです。
話を端折って、16世紀に至っても「神聖ローマ帝国」と名乗って“ローマ”の称号にこだわるヨーロッパ人の心情は東アジアの島国育ちにはなかなかに理解しがたいと思います。。
このローマにこだわる心情とは要するに
「ヨーロッパを支配するのはローマ皇帝を戴くローマでなくてはならない」
という問答無用の論理。
この論理はなかなかに強固で実はヨーロッパの歴史において皇帝という人間は、古代ローマ帝国からナポレオン革命にいたる1500年間、どの時代にも必ず“2人しか”存在してらならないことになっているのです。
それはもう暗黙のうちに。
1人は東ローマ皇帝、つまりピザンツ帝国皇帝。これはピザンツ帝国滅亡後ロシアに帝位が渡りロシアにて皇帝位は継承され20世紀まで続くと。
そしてもう1人は西ローマ帝国皇帝、これはシャルルマーニュののち、紆余曲折して神聖ローマ帝国皇帝として帝位を紡ぎ、時代がくだると主にハプスブルク家が皇帝を担う。
(これはマリーアントワネットの母親、マリアテレジアの若かりし頃)
フランス革命で断頭台の露となったマリーアントワネットの父親は神聖ローマ帝国皇帝だが、拡大解釈な表現をすればマリーアントワネットは西ローマ帝国皇帝の娘なのだともいえます。
フランス革命の直前までローマ皇帝が生存していたというのは意外だと思うのではないでしょうか。
そしてそれは常に2人。
皇帝に憧れた実力者が勝手に名乗ることは憚られた。フランス国王の中には皇帝に憧れハプスブルク家からなんとか皇帝位を奪えないかを本気で画策した王もいたくらい。
ローマというものは東西があり、教会も東西があり、皇帝も東西にいる。
この考えが中世ヨーロッパ世界の大原則で、近世いたってかなり薄れたがまだ建前上の常識として歴史的事実として機能していました。
これをまったく無視し、勝手に自ら皇帝を名乗ったナポレオンという男がいかにエポックメイキングだったのかはいつ考えても興味深いところです。