レポート 銭屋五兵衛を想う【霜の花茶会】その②
僕が【銭屋五兵衛】という存在を意識したのは大学3年の夏だった。
ひたすらアルバイトに明け暮れ、アルバイト代は車とお酒と旅行に消えていた大学生活も3年ともなるとゼミを決め卒業論文の準備をせねばならない。
僕はもともと興味のあった戦国時代関連をやろうと思っていた。
けれど、なぜか、本当になんでかは定かではないのだけれど、家にある古びた文書を発見した。
こう書いていて思い出してきたけど、ひょっとしたら7つ歳の離れた兄がお酒を飲みながら「家の物置には古文書があるんだ」と言っていたことを思い出したのかもしれない。
それまで21年間開けたこともなかった物置をひっくり返し僕は埃にまみれ無造作にダンボールに入れられた古文書を手に取った。
その古文書にはいたるところに「髙橋」の文字があった。
自分の祖先らしい人物のことが書かれた古文書。
そこから僕は「卒論では髙橋家の文書をやろう」という熱病に憑かれて古文書を読み関連する銭屋五兵衛や羽咋市の歴史も調べた。
しかし結論を書けば、結局それは挫折した。
学部内のある教授が僕の古文書に対しやっかみを言ってきたことで一気に興醒めしたのだ。
なんだったろうか、卒論で自分の家の研究なんてするのかだとか、君の家の史料はとてもありふれていて平凡なものだよ、だとか、まぁ今にして思えば「さもありなんだな」と思うのだが当時はなんだかムカっとしてしまったのだろう。
結局2ヶ月ほど半端に調べてやめてしまい、卒論は滋賀県の戦国大名について書いて終わらせた。
次に銭屋五兵衛と出会うのは大学を卒業して最初の夏。
兄がお盆に帰省したときに、僕が以前髙橋家の古文書について調べたことをそのとき初めて話すと「詳しく調べて教えてくれよ」と言ってきたことがきっかけで、2年前に調べかけたままの髙橋家について調べなおしたのだ。
そのときに色んなことを初めてきちんと知った。
髙橋家が平家の落人伝説の家らしいだとか、銭屋五兵衛の河北潟干拓の際の人手として羽咋周辺の人夫を斡旋したらしい(この箇所についてはうろ覚えなので正確な研究成果かは不明です)、だとか、明治以降は塵濱村(現石川県羽咋市千里浜)の村長をつとめていた、など。
(このあたり、昭和40年代に編纂された羽咋市史に詳しく記してあった)
そして、銭屋五兵衛を顕彰する「銭五茶会」なるものが毎年催されていることも知った。
この時既に茶道を習っていた僕は、いつか銭屋五兵衛に関する茶室で、集まりで、お点前でもできたら何だか縁だよなぁとぼんやりながら考えたのだった。