レポート 銭屋五兵衛を想う【霜の花茶会】
心あてに
折らばや折らむ
初霜の
おきまどはせる
白菊の花
今は2月。
もはや時季外れの古歌を口ずさむ。
霜も雪もないのだから、あてずっぽうでなくとも花を見つけられるかもしれない。
2月16日(木)、石川県銭屋五兵衛記念館にて【霜の花茶会】と銘打ち釜をかけさせていただいた。
この時期の金沢にしては珍しい快晴。
茶室を照らす陽射しが心地よい。
銭五記念館の茶室は拾翠園といい旧銭五宅から移築したもの。案外知られていないが銭屋五兵衛は裏千家に親しんでいた茶人で、この茶室は三畳の小間。
とにかく狭い。
しかも向切。
実のところ、ここまで狭い茶室で点前をした経験はなく向切は遠州流ではまず行わないので戸惑った。
そもそもこの茶会は金沢歴活のご常連、浜さんから提案されたもの。
浜さんは銭屋五兵衛の清水家と親戚で、近頃の関心が北前船なので自然と銭屋五兵衛へと足が向き、以前、僕が歴活で髙橋家と銭屋五兵衛の関係を話したことを覚えていたからだ。
「銭五記念館にお茶室もあるから、髙橋さんそこでお茶会ってできたりします?」という浜さんの問いに僕は少しだけ躊躇して、やってみましょうと返事した。
浜さんとは以前にも金沢駅の地下でお茶会を企画したことがある。
今回躊躇したのは、銭屋五兵衛の茶室で点前をするということが、僕のこれまでを何か象徴するような気がしたから。
僕の髙橋という姓は父方のものである。
父は中学校の頃から一緒に暮らさず高校に上がる頃には正式に離婚した。
父は酒癖悪く、酔った勢いで僕の顔へガラスの杯を投げつけ、僕は夜間の救急外来へ運ばれたこともある。
その時の傷は今も残るが。
父の実家は羽咋という田舎の名家で、父は末っ子。
これまた名家であった髙橋家へと養子に入った。とはいえその頃の髙橋家は戦後の農地改革や遺産相続で揉めており父には財産らしい財産など何もなかったらしい。
実際僕の幼少はひもじい思い出しかない。
定職へつかない父の稼ぎも乏しいため、母は僕を産んですぐに職場復帰したため僕は0歳児から保育園に預けられた。
そんな父は【髙橋】という家柄が誇りであったらしい。
髙橋家は平家の落人伝説に由来し本当か嘘か分からないが鎌倉時代、地頭をつとめた家柄で父で20数代を数えるという。
数代前には銭屋五兵衛という商人の右腕にもなっていたんだという。
そう自慢する父に母は冷ややかな目を浴びせていたらしい。
そりゃそうだろう、実際の稼ぎが乏しく、子どもを3人抱えながら目の前の生活は苦しいのだから。
父の実家は1960年代前半に6人兄弟全員が短大以上の学歴で、まさしく田舎の名家だった。
しかし父は東京の大学で学生運動に明け暮れ、結局大学も転籍し不本意に石川に帰郷。
絵本などを売る本屋を始めたらしい。
小さい頃、家には漫画はないけど固めの児童図書や文庫本が多かった。
僕は読書が趣味で、実際年間の読書量も多いのだけれど数年前、仕事にやや行き詰まったとき母へ「仕事辞めて、本好きだから本屋でもしようかな」と冗談めかしたとき、から恐ろしさを覚えたものだ。
そんな父が誇りに思った、髙橋が関わる銭屋五兵衛。
その所縁の茶室で点前をすることは憚られた。